2008年09月20日

聖書のいう罪

 〈このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。〉ロマの信徒へ手紙5章12節
 
 神は人を「御自分にかたどって(似せて)創造された」のです。それは、人の姿や形が神に似ているというのではありません。親子が似ているという場合、姿や形は似ていなくても、価値観や好きな物や行動がそっくりと言われるることもあるでしょう。人は、神と向き合い、神を愛し、神の御心に従い、神の栄光を表すように創造されたのです。
 しかし、最初の人アダムは神に背をむけました。それが聖書のいう罪なのです。それ以来、人は神に似ても似つかないものになったのです。神の似姿を失ったのです。神に「かたどって(似せて)」というのがわからなくなりました。それは本来の人間でなくなったということです。
 私たち本来の人間に戻るには、神の似姿で生きる人を見なければなりません。しかし、この世には誰もいません。全ての人が罪を犯しているのです。そこで、神は御子を人の姿にしてこの世に送ってくださいました。「神の似姿であるキリスト」2コリント4章4節。つまり、キリストに従い、キリストを仰ぎ見ると、神の似姿が分かるのです。主キリストは、従う者の罪を赦し、神の似姿へと、私たちを造り替えてくださるのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」エペソ2章10節。
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2008年09月16日

御子により神の似姿を取り戻せる

 〈 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。〉1ヨハネの手紙3章2節。
 
 神は人を御自身に似せて創造された。私たちは姿や形を思い浮かべることになれている。神の御子が人の姿でお生まれになり、私たちと同じように生活なさった。それで、益々、神は人の姿や形に似ていると思うのかも知れない。
 しかし、私たちは似ているという場合、必ずしも姿や形のことを考えていない。親子であれば、姿や形は、どこか似ているものである。しかし、価値観は自然に親に似て生まれるわけではない。
 人は、神と同じ価値観をもつものとして創造された。ところが、人は自分の価値観をもつようになった。人は、神に背を向けて、自分の価値観に従い生活するようになった。それが聖書のいう罪である。
 人は自分の価値観に生きることにより、神に似せて創造されたことなど、思いもしなくなった。人は本来の姿を見失なったのである。それが人生を限りなく悲惨にしている。人は、平和になるために希望に生きるために、神の似姿をとりも出さねばならないのである。
 そのために、御子は人間の姿でお生まれになられたのである。主イエスは、徹底して神の価値観による生活をなさったのである。それは、人が神の似姿を取り乱すためである。人は、主イエスを仰ぎ見、従うことにより取り戻せるのである。
 主イエスは、何を大切にして生活されたでしょうか。それは、神に向き合って生きること、神を礼拝し賛美すること、御言葉に従って生きること等々である。それが、神の似姿に生きることなのである。
 私たちが主イエスに従って、そのように生きているならば、神の似姿を取り戻していると考えて間違いありません。
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2008年07月29日

御子に似た者とされる

聖書「 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」ヨハネの手紙1.3章2節。
 
 神は「御自分にかたどって人を創造された」と創世記1章27節に記されています。それがアダムとエバであります。しかし、神のかたち(神の似姿)は、罪が入り込んだことにより似ても似つかないものとなりました。創造主に対する従順を失い、めいめいが好みによって偶像なる神を造り拝んでいます。それが、神の似姿を失なっている証拠です。もはや人間を見ても、神の似姿は分からなくなりました。
 そこで、神は御子を罪のない人間としてこの世にお遣わしになられました。主イエスは神のかたちに創造された人間を啓示して居られるのです。そして、主イエスを信じる者は「御子に似た者となる」のであります。それは、罪を取り除かれて、罪から生じる一切の汚れを取り除かれて、神の御栄光を現す本来の人間、神にかたどって創造された人間に回復されることであります。そして、神の国の民となるのです。
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2008年07月26日

死後の国

「 陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。」詩篇49編15−16節。

 私たちは死んだらどうなるのだろうか。この世の国は仮の住まいである。ある人は、肉体は滅びても、魂は永遠に生きるであろうと思っている。またある人は、肉体も魂も滅びて無になると思っている。
 聖書の教えはいずれとも違う。死んだ人間は陰府の国(死人の国)に降るのである。私たちキリスト教徒は、主イエス・キリストは、死んで陰府の国にくだり、三日目に死人の中から(陰府の国から)復活されたと信じているのである。陰府の国は神の国とは違う国である。そして神の国は、魂が罪から贖われた人の国である。ちなみに、@この世の国がありA死人の国がありB神の国があることになる。
 誰が、私たちの魂を罪から贖ってくれるのであろうか。聖書は、それは主イエス・キリストであると教えている。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」エフィソ1章7節。
 それゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じる者は、誰でも神の国の民となれるのである。神の国は永遠であり、苦しみも悲しみも争いも死もない、神に養われ、神を賛美し、永遠に憩いるのである。ハレルヤ。
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2008年07月14日

謙遜にいきましょう。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。〉創世記2章7節

 神の息は聖霊であり、命であります。私たちは神の霊により、息をして生きる者とされました。しかし、それは、人間は神に等しいものとして創造されたということではありません。他の動物と同じように「命の霊をもつ肉なるもの」であります。人間は万物の霊長であるというのは人間の傲慢であります。旧約のコヘレト3章19節以下にこうあります。「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。」
 人間は息を引き取られて死にます。コヘレト12章7節にこうあります。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」これは人間の死の状態であります。主イエスは十字架の上で「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」ルカによる福音書23章45節。死ぬことは神に命の霊をお返しすることであり、肉は塵に戻されることであります。謙遜に生活しましょう。
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2007年07月01日

キリスト者の希望

【<strong>神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。                    1ペトロ1章4−5節
 
 私たちは「終わりの時」に実現する希望を与えられています。それは「天に蓄えられている」救いをうけること、つまり、復活の身体と永遠の生命を頂くことであります。この希望は、主イエス・キリストによる罪の贖いと復活によって保証されている希望であり、聖霊に導かれて信仰により、受け取る希望であります。
 私たちの父なる神は御子なるキリストにより、人生の目標である希望を与えて下さり、更に「神の力」(聖霊)により「信仰によって」希望が私たちに実現するように守ってくださいます。ありがたいことであります。教会に来て聖書を学んで確信を深めてください。
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2006年09月03日

夫婦のありかた

だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。】マタイ19章6節

 これは、結婚についての主イエスの御言葉です。

 教会の結婚式は「神が結び合わせてくださったもの」と信じて行われます。その結婚を、神は祝福してくださるのです。

 主イエスは、次にこう言われます。「人は離してはならない」。神が結び合わせてくださったのだから、人の思いで離婚してはならないのです。
 
 離婚は、お互いに嫌になったとしても、してはならないのです。離婚は神に祝福されません。夫婦の結びは、互いに歩みより、赦しあい、努力しあいながら、保つように求められているのです。

 子供が生まれたらなおさらのことです。子供の心は、親の勝手な、わがままな離婚で引き裂かれるのです。どちらかが引き取って育てれば良いというようなことではないのです。

 子供に我慢をさせるのでなく、親が我慢をするのです。子供の心を傷つけるのでなく、親が心に傷を負うのです。子供を犠牲にするのでなく、親が犠牲を負うのです。

 この夫では、この妻では、幸せになれない、幸せになるために離婚したい、親は、自分たちの幸せのために離婚する、そのように考えのはよしなさい。

 親は、自分たちの幸せを捨てて、子供の幸せのために生きれば良いのです。そのような思いで結婚してください。そのような親、夫婦は、必ず神の祝福を得るのです。そして、子供は、喜び、感謝するのです。


 
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2006年08月15日

平和を望みながら

【平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。】マタイによる福音書5章9節(『新共同訳』)

平和はみんなが望んでいる。それなのに、なぜ、戦争はなくならないのでしょうか。
平和を実現するために戦争をするのでしょうか。
平和は戦争をしないことでしょう。

聖書の言う幸いな人は、戦争をしないで平和を実現する人々のことです。
隣人愛と自己犠牲と忍耐が必要です。
ところが、私たちの隣人愛は貧弱で自己愛に富んでいます。
他人を犠牲にして目的を達成しようとします。
そして性急に判断を下します。

先ず、私たち一人一人が、平和を実現するために相手を犠牲にしないように生きることです。身近な隣人との間で、夫婦の間で、親子の間で、兄弟姉妹の間で、愛と自己犠牲と忍耐を養い平和を実現することからはじめましょう。
相手の言い分をまず聞くこと、相手の行動の良し悪しを性急に断定しないこと、自分がして欲しくないことを相手にもしないように努力すること等々は、平和実現するために大切なことであると思います。

平和とは相手も自分も共に生きることです。
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2006年08月14日

眠れない夜の祈り

【主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。 身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。】詩篇3編5−6節

詩篇は神を信頼する人たちの祈りです。
信仰者は苦悩を神に訴え助けを求めて祈り、また、助けられた喜びを神に感謝して祈りました。

この詩篇はダビデ王の祈りです。親子の間に骨肉の争いが生じました。家族内にも、国の内外にも、苦悩がつきませんでした。
ダビデは夜の眠りを祈りもとめ、朝に元気な目覚めを祈りもとめました。
神は祈りに応えてくださり、夜の昼も支えてくださいました。

夜、眠れぬ日々を過ごしておられる方は、この詩篇を読んで、自分の祈りとしてください。
多くの人たちが、自分で気づかないうちに、さまざまなストレスにより身心をすりへらしています。
床に身をよこたえたら眠り、元気を回復されて目覚めることは、最も大事な基本的なことであります。

どうぞ、神を信頼して祈ってください。
できたら、近くの教会を訪ねて、礼拝堂で祈りをささげてみてください。
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2006年07月16日

謙遜と高慢

【神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。】ヤコブ4章6節。

神は謙遜な者をお喜びになられます。
高慢と謙遜はどこがどう違うのでしょうか。

広辞苑には、謙遜を「控え目な態度で振舞うこと。へりくだること」、高慢を「思い上がって人をあなどること」と解説しています。

次のように言えるのではないでしょうか。 
謙遜な人は相対する人を慰め、励まし、生きる希望を与えます。
高慢な人は相対する人を辱め、打ちのめし、生きる希望を断ちます。
実際に、多くの人が他人との交わりの中で、経験していることではないでしょうか。

主イエス・キリストは、謙遜に生きるお手本です。
主イエス・キリストは私たちを慰め、励まし、生きる希望を与えて下さいます。

誰でも、主イエス・キリストと交わりをもちますならば、自分自身がいかに高慢であるかを知らされます。
誰もが、強い相手には卑屈になり、弱い相手には、威丈高に生きているのです。

主イエス・キリストの鏡で自分を見ると良くわかります。
悲しいことです。

しかし、主イエスは、そのような私たちに対しても謙遜でいて下さいます。それで、私たちは救われているのです。

礼拝においでになり、主イエス・キリストと交わりをもち確かめてください。
posted by スイートポテト at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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